亡くなった人とはもう会えないの

  • 2016.10.09 Sunday
  • 00:53

あなたにとって亡くなった大切な人は あなたの心の中で生きています。

 

その思い出は あなたの涙の中にだけ存在します。

その涙から逃げない限りいつでも出会えます。

 

困ったとき、疑問を持った時、 その涙の中に生きている大切な人に聞いてみてください。

でも、 大切な人からの答えはいつも同じです。

 

それは

「俺の前でまで、自分にウソをつくなよ」

です。

 

自分が悪かったのに

「ごめんなさい」

って言えない自分。

自分が助かったのに

「ありがとう」

ってって言えない自分。

そんなウソをつく必要がない相手。

必要がないというよりも、ウソをつけない相手 それがあなたの涙の中に生きている大切な人なのです。

 

 

自分を見つめさせてくれる、 あなたにとって大切な方 その方があなたの涙の中に生きています。

 

 

 

死んだらどうなるの

  • 2016.06.01 Wednesday
  • 02:20
火葬場って悲しい所ですよね。
何回行っても慣れることはありません。

人の亡くなり方ってイロイロですけど、
お姿があるときには、
生前に縁の深い人が亡くなった人との思い出を語ったり、
泣きながら話しかけたり、
イロイロな風景を見ることが出来ます。

火葬場ってのは形がなくなるんですよね。

扉が閉まるときに引き裂かれるような気持ちがしますよね。
「火をつけるのを止めて」
って言ってもダメなんですよね。

その人の命が終わるときってのはお医者さんが教えてくださる時かもしれません。
でも、残された人間にとってみたら 火葬場のふたが閉まったときかもしれませんね。

ふたが開いて、
白い骨が出てくる時、
決して諦めるではない、
言葉では言い表せないけじめがつきますね。
言葉では言い表せないけじめは悲しみというつらさの中にありますよね。

自分の悲しみという心の中にその人が生き続けてるんですよね。
心の中に生き続けている思い出。
あなたにとってのその人の命。
その思い出を、
あなたが生きている限り安らかに眠らせないで下さい。  

外を見れば、いつもと同じように時が流れているんですよね。

 
 

死んだらどうなるの

  • 2016.05.22 Sunday
  • 22:42
誰も見たことがありません。
ただ昔からその考えかたは 三つしかありません。

ひとつは、そこで全て終わり、 まったく無になるという考えかたです。
何もなくなるのです。

もうひとつは、生まれ変わるという考え方です。
輪廻という言葉で 新興宗教がよくつかう方法です。
こ れも
「あなたは昔の中国の王妃の生まれ変わりです。」
などと、 良い方に言えば 聞いたひとは喜びますが、
「あなたはゴキブリの生まれ変わりてす。」
と入った様に、 悪く言えば誰も聞きません。
それを言っている人間の心の中、信じこんでるここの中でしか 成立しない教えです。

最後のひとつは、 別の世界が待っているという考え方です。
地獄、 天国、 極楽など それは色々な言葉で表現されています。
でも、誰も見たことがないのです。    

死んだらどうなるの。
その問いはそのまま、
「何故生きているの。」
という問いです。

言い訳や逃げ道のための死後の世界は思い込みの中にしかいません。
死後の世界はあなたの逃げ道ではありません。
命の帰るところです。
あたなにとって大切な方の、二度と会えない別れから立ち上がるための世界です。
あなたの思い出が生きる場所です。
生きている人は悲しみから立ち上がり、次の一歩を歩まないといけないのです。

死ぬために生きるのではありません。
生き終わるのが死です。
あなたの死後を、 脅しや 金儲けに つかうやからの言葉に 耳を傾けないでください。
 

地獄ってなあに悪いことしているからみんな往っちゃうじゃない

  • 2016.05.01 Sunday
  • 08:49
お経に地獄が書かれている理由は

死後の脅しではありません。

たとえば子供が真夏に窓を開けた縁側で

おなかを出して寝ていたら何と注意するでしょう。

「夕立が降ってきて寝冷えしてはいけないから

おなかをかたずけなさい」

と言ってもなかなか言うことを聞きません。

そこでカミナリ様というものを作りだし、

それをつかって子供にいいきかすのです。

「へそ出して寝ているとカミナリ様がきて、

へそ食われるぞ」

子供はびっくりしてお腹をかたずけるでしょう。

このカミナリ様とは、

子供に言うことをきかせる為の、

架空の生きものてす。

それを鵜呑みにしてしまえば、

カミナリ様という生きものがいて、

そいつの主食は

人間のへそだということになってしまいます。

地獄もこのカミナリ様とおなじです。

生きているうちに正しい生き方を

しなさいといってもなかなか出来ない。

そこで仮に死後に地獄というものをおいて

正しい生き方をうながすのです。

本当は地獄とは

正しいおこないのできない

その人の心の中にある世界です。

死後の世界のものではありません。

地獄を死後の世界にして

あなたを脅すやからの言葉に

耳を傾けないでください。

本当の地獄は孤独から始まります。

誰か、何かのせいにしたときに、地獄の道が始まってるかもしれませんね。
 
JUGEMテーマ:生き方

運命や偶然てあるの

  • 2015.08.16 Sunday
  • 16:55
ありません。

それらの言葉は 自分の責任から逃れるために、 もしくは自分の悲しみなどの感情から逃れるために 使われる言葉です。

仏教には縁起という考え方があります。
縁起という言葉の本来の意味は、縁があるから起こるという意です。
世の中に起こる全ての出来事には 原因があります。
過ちの原因を追求すれば、次の行動のヒントになりますよね。

事故も ケンカも 笑うも 泣くも、 全てそれを生み出した 原因があるのです。
その原因を追求し 反省して 将来にむかって生きることができれば、自己の成長につながりますよね。

その原因を追求させない、 あきらめの言葉が 運命や偶然という言葉です。
もしもこの言葉を使う教えが あなたの前にあらわれたら、 すくなくとも その教えは仏教ではないと思って下さい。    

色々な宗教が 自由という言葉を売り物にしています。
しかし自由という言葉の 本当の意味は、 自分の行動を 自分の考えで行い、 その結果に対して 自分で責任がとれるということです。

自分の人生の主人公は自分です。
他人の人生の主人公を取り上げることは誰も出来ません。
自分以外の人の主人公には誰もなれないんです。
自分の人生の主人公を他のものに渡すことは、苦しみの始まりです。

自分の人生の主人公を運命や偶然という形のないものに渡してしまわないで下さい。

運命や偶然と言う言葉は、 自由を否定します。
あなたの人生は わけも分からない形のない不思議なものに レールを引かれているのでしようか。    

あなたの失敗をごまかすには 都合の良い言葉かもしれませんが、 その言葉を信じている人は、 自分の行動に責任がもてない、 自由を捨てた人なのです。

運命や偶然と言う言葉から 自己を取り戻して下さい。


目の前の自分に都合の悪い出来事を他のものせいにすれば、その時は逃れられたような気になれるかもしれません。
でも、そう思ってるのは自分だけなんです。

人のせいにした時に、不幸が始まります。


JUGEMテーマ:運命を信じますか?

空ってなにが空なの

  • 2015.01.27 Tuesday
  • 20:06
   開き直りの言葉ではありません。

「どうせこの世は空だから・・」
なんてのは諦めをナットクさせるための言葉ですよね。

 
この世や私なんて所詮ないに等しい・・・
そんなことないですよね。ちゃんと存在してます。

 
人は比べることによって過ちを犯しやすいです。
優越感や劣等感は比べることで起こってくる感情ですよね。
 
比べるためにはモノサシが必要です。
そのモノサシがガンコで強固であればあるほど、
優越感や劣等感はガンコで強固なものになります。
 
それだけではありません。
相手の気持ちや相手の思いまでが見えなくなってしまう恐れもあります。
 
そのモノサシが空なのです。
無いものにしがみついて、あるものを失っていくのが優越感や劣等感なのではないでしょうか。

 
しがみついているものはあなたにとって必要なものなのですか?


何が違うかを探すのではなく、どこなら共有できるかを探せるといいですね。

 
JUGEMテーマ:人間関係

ジャン.カルバンの言葉

  • 2014.06.15 Sunday
  • 18:19
JUGEMテーマ:歴史

神を知る知識と、
 自分自身を知る知識とは 
共通した事柄である  
 



この場合の神は創造主のことです。 
カルバンは、ルターとともに、 
近世ヨーロッパで ローマ教会中心の金儲け主義の腐りきったキリスト教を 立ち直らせた思想家です。 
 
 カルバンの考え方は、
一般的な信仰に対するイメージを破壊するものでした。 
 
どんなに聖書を読んでも、
善行をつんでも、
信じ込んでも、
神からの救いの条件には関係ないことである。 
 
大雑把に言うとこれがカルバンの考え方です。 
 
キリスト教には絶対的な創造主が存在します。
全ての自然界を作り出し、歴史を作った存在です。 
その存在(意思)はいかなるものも妨げることは出来ないそうです。 
 
最後の審判と呼ばれるものも全ては神の意思によって決定している事であって、 
個人の信仰心や善行などと言う小さな事に左右されるものではない。
神に対して欲望や願いや条件を作ること自体が間違った事である。
 
人間が月や太陽を西から昇らせることが出来ないように、 人間の力では神の決定を覆す事は出来ない。
 
陶磁器が、陶磁器職人に感謝しようが、自分の作った決まりを守ろうが、 願おうが、すがろうが、 
陶磁器職人は出来のよさ悪さだけで、作品を残すか壊すかを決めます。 
陶磁器には助かるすべを模索する権利はありません。 
陶磁器が人間であり、職人が創造主です。 
 
つまり条件の為に生きるのではなく、 生きるために生きることがキリスト教の信仰である。
というのがカルバンの考えです。 
 
すがったり、逃げたりする事が出来ない 現実の自分の姿が見えてくると言うのです。
 
献金や、まじないや、権威にまみれたローマ教会を戒めたカルバンの考え方を 
見つめなおしてほしい団体が日本にもイッパイありますね。 
 
カルバンの信仰についての考え方はなるほどなあと思います。 
迷信や権威、象徴の奴隷からの開放はできます。
でも、神の奴隷からは開放されてませんよね。
 
人間は神の決定が知らされる事を待つだけの存在です。 
これは徹底的な運命論ですね。
 
しかもこれは神がいるということがあってこそ成立する話です。  
創造主という存在を、なんの疑いも持たずに信じ込まなければ成立しませんね。
わたしは信じる前に疑います。
疑えるものは疑います。
手に入る情報は正しいか正しくないかの確認が必要ですね。
確認の第一歩は疑うことです。
疑うことも許さないなどと言うような情報は、とてもじゃないけど受け入れることなんか出来ませんよね。
 
情報は疑ってみましょう。
思い込みでしか成立しないものは疑えます。
疑いきれないものは真実でしょうね。たぶん。

ヤバいテロリスト

  • 2013.02.13 Wednesday
  • 12:23
JUGEMテーマ:事件・事故
 
最近、ヤバいテロリスト事件が目立ってきましたね。
テロリスト側は自分たちにしか通用しない正当性を持ってるんですね。
犯罪を正当化した気にさせている理由の一つに宗教ってのを悪用しています。
特に目立つのがイスラム。
んでもイスラムを悪用したテロリストを見て、イスラム全体がキケンってのは行き過ぎた論理になってしまうのです。

ということで世界にはさまざまな宗教があるのです。
キリスト、イスラム、ユダヤ、ヒンドゥ、仏教、などなど
これらを宗派まで細かく見だしたらワケがわからんような数になってしまいます。

分類の仕方はいろいろあるのです。
創造主がいるかいないか、選ばれた民族だけの宗教か人類宗教か、条件を満たしたものだけの宗教か開かれた宗教か、なんいて分け方もできるのですがな。

一神教か多神教かなんてのはメジャーな分類ですね。
ということでイスラム、キリスト、ユダヤなんてのは一神教ですね。
ヒンドウは多神教。
批判もございましょうが、仏教は宗派によっては一仏信仰もありますがそれぞれがそれぞれのご本尊を敬ってるってことで、宗教学においては多神教に分類されるのですがな。

一神教でもユダヤ教は選ばれた民族だけの宗教です。
選民思想っていうんですけどね。
選民思想ってのは宗教を信じるというよりも、民族の統一と他民族に対しての優位感を感じさせてくれるものって意味合いの方に落ち込みやすいんですね。

キリスト教とイスラムは一神教の世界宗教です。
キリスト教は国の侵略政策の中で、他の宗教を弾圧、排除しながら強制していきました。
力ずくで徐々に広げていく中でキリスト教側が人類宗教に変化していこうとしてるみたいですね。
問題だらけなんですけどね。

広がりのスピードが速いのはイスラム。爆発的に広がっていきました。
特にヨーロッパ諸国に虐げられてきた国にどんどん広がっていったんですわ。
イスラムって戒律の教えだから強制的って思われがちなんですが、実はユダヤやキリストよりも寛容なんです。

イスラムの絶対的戒律は信仰告白、礼拝、喜捨、断食、巡礼の五つです。
全部やらなきゃ相手にされなくなる・・・・ってなことはないのです。
イスラムになるために信仰告白は避けれませんけど、あとの四つはそれが義務だとわかっていればできない人は強制ではないのですがな。病気や金銭的理由でできないのならばそれはそれで問題ないのです。やれる人がやればいい。これが5行なのですわ。
ちなみに他宗教の人にイスラム教を強制することも禁止しているのですがな。意外でしょ?

一神教の平等思想は同じ神を信じているものって絶対条件が付くのですが、それ以外のことで言えばイスラムの平等思想はユダヤやキリスト教よりもスゴイのです。
ガチガチの男社会での平等思想ではありますけどね。
この平等思想も広がっていった理由の一つでもあります。


初期のイスラムは、他宗教に寛容っていってもタダではすみませんでした。
イスラム国家が他国を占領した時に異教徒に改宗は求めません。
んでも、地租と人頭税を払えってんですね。ハラージュとジズヤって呼ばれている税金です。そうすれば生命をと財産を保証するってんですね。
もちろんいうことを聞かなければ生命と財産は保証してくれません。つまりは殺されて略奪です。
このハラージュとジズヤ、もしくは略奪品は国のトップの公平な富の分配によって、イスラムに還元されるのです。

ちなみに改宗すればハラージュとジズヤを払う側からもらう側になれるのです。
「コーランか、貢納か、剣か」
さあ、あなたはどれを選びますか?
これでイスラムは短期間にどんどん広がっていきました。

ちなみに全員イスラムになればすべて丸く収まるなんて思ったら大間違い。
その国は納税者がいなくなっちゃうですがな。
当然ジリ貧。
イスラム同士は平等ですから攻撃できません。他宗教の国から略奪って考え出す人も出てきます。
情報も少なく、剣と斧で戦ってた時代なら成立してたかもしれませんが、今これをやったらどうなるか。
こんなやり方、石油でもとれなきゃやってられませんがな。

イスラムには聖職者がいません。ですから信仰告白さえすればそれでもうイスラムの仲間。
これも早く広がった理由の一つでありまする。
その代りウラマーっていわれるイスラム専門の学者さんがいるんですね。その人たちの考えで規範が決定します。
つまりはウラマーの性格によって優しくも攻撃的にも変化しちゃうんですね。

村の長老やリーダーがウラマーになる場合もあるみたいですけど、それがもし世間知らずの回顧主義者の頑固者、ガチガチの男尊女卑だったらえらいことになってしまいます。


ウラマーによっては五行を強制する人もいれば、意見が違ったり形が違ったりするだけで、同じイスラムでも攻撃の対象にしちゃうこともあります。スンニ派とシーア派なんて教え的違いはホトンドありません。ウラマーの考え方一つで敵にも味方にもなっちゃいます。真面目で純粋であるほど違いを探し出しますし、他の意見を聞けなくなってますからね。

ちなみにイスラム貧国なんかのひどいウラマーですと、てめえのせいでひどい目に会ってる難民にのところに一生懸命ボランティアに行ってる外国人を
「かれらは他宗教のものであるから、貢納の義務をはたしに来ているだけである」
とか、外国人をさらって高額身代金をかすめ取ろうとする事件なんかも
「異宗教のものがハラージュとジズヤを払わないから、権利として強制的に回収しているだけだ」
なんてたわけた理由をつけてるバカ野郎もいます。


多神教は原則として他宗教に寛容です。
ですから文化的には多くのものが残りやすいです。
寛容ですから他宗教の人が訪れても宗教的攻撃は少ないです。

イスラムの考え方に偶像崇拝禁止ってのがあります。
侵略した土地にある偶像施設は跡形もなく破壊されちゃうんですね。
しかも他宗教に対して攻撃的になる場合もあります。

安全で歴史的遺跡が多い街。キケンで何もない街。
あなたが観光に行くとしたらどちらに行きますか?

これが現在、ますますイスラムのジリ貧に拍車をかけてるんですね。

一神教は一途です。一途は真面目になりやすい。一途は例外を嫌うんですね。純粋であれば純粋であるほど違いを嫌います。他に対して攻撃的になりやすいって欠点があるんですね。

多神教は寛容です。寛容は違うものにもにやさしいです。んでも寛容は下手をするといい加減になりやすいって欠点があります。

神を一途に信じて真面目に生きている方々がその町で暮らせないから、観光地である多神教の町に出稼ぎに行く。
そこで見る自分を雇ってる方々は戒律も守らなく、偶像崇拝もしている。自分たちと比べたらメッチャいい加減に見える。それでも裕福。
真面目であればあるほどヤキモチによる敵意を感じます。
しかもその敵意は自分のヤキモチってことにはなんないんですがな。
神の教えに反するって言葉で相手のせいにしちゃうんですから厄介ですがな。
んでもってテロ。
そこでテロを起こせばその観光地もダメになる。そうすると仕事の場所もなくなる。
悪の連鎖です。
世界第四位の人口を誇るインドネシアなんでのがまさしくこれなんですね。
イスラムがホトンドなんですけど、1万八千からなる島国。島によって宗教が違うんですね。多神教の島が観光地。一神教の島の方々は出稼ぎに行かないといけないんです。
んでもって観光地で10年に一回ぐらい爆弾テロ。
立ち直るまで仕事もなくなる。これの繰り返しなんですね。

アフガニスタンのバーミヤンの遺跡なんかも、きれいに手入れして観光者の安全性を確保して、そこで商売をすればビックマネーが転がり込んできたはずなんですけど、できないんですね。
できないのは教えのせいにしちゃってますけど、決めたのは人なんですね。そんでも全部神のせい。
自分がなくなっちゃう真面目は、ブレーキの利かないダンプカーとおんなじです。
自分の欲を神のせいにして
「教えのために命をささげることは最高の喜び」
んでもって、そこに暮らしている人々の命や文化は神を軽視する者どもですから滅ぼしてしまえって話になっちゃうんですね。
しかも自分のおぼれている正しさが先にあるから、のちに来る結果なんかまったく見えてこないんですね。

ちなみに本来のイスラムはこんな自分の悪意をごまかす攻撃的教えじゃありません。
テロリストが正当化に使う言葉
「ジハード」
これの本来の意味は
「努力、奮闘」
です。上の五つの戒律の次にくる六番目の戒律なのですわ。

イスラムの過激派の問題はイスラムの問題っていうよりも、ウマラーの性格に左右されているところがデカイように思えます。
自分の価値観にしがみついて変化を怖がるようなウラマーなんかは暴走しやすいですね。しかも正当化にはイスラムの教えを利用しますからたまったもんじゃない。
イスラムの教えのままに行動する方は原理主義者なんていいません。
どんな犯罪でも、正当化してしまうように教えを都合よく利用できる方々を原理主義者っていうのです。

原理主義テロリストはイスラムの名を利用している方々だけじゃありません。日本にだっててめえにしか通用しない正義を武器にした真面目なテロリストは腐るほどいます。正しさにおぼれてそれを押し付けて他を攻撃してくる族は全部恐ろしい原理主義者なのですがな。
多神教である日本でも、わざわざ一神教化してほかを攻撃して喜んでいる団体もありますものね。
一途で純粋であればあるほど、違うものへの攻撃性はレベルアップしてしまいます。
正しいと思えば思うほど、てめえらだけにしか通用しない正当性もレベルアップしていきます。
近づきたくないものですけど、寄ってきたらどうしましょう・・・言い合ったって時間の無駄。逃げましょう。

さて例題です。
イスラムを利用している過激なテロリスト指導者ならばどこまで認めるのかな。

偶像崇拝禁止ってことは
これはアウト?
これは?
バカにしてるってんでアウトでしょうね。
ちなみに崇拝してないんですけど、きっと聞く耳もないんでしょうね。

天使と悪魔

  • 2012.08.03 Friday
  • 00:52
JUGEMテーマ:幻想生物・悪魔・天使 

アバドン、ベルゼブブ、ダゴン、アスタロト。
名前見ただけで、何かがわかったらマニアック。

これ、悪魔の名前なんですわ。
んでも、悪魔といってももともとは神だったんですわ。

一神教が広がるにつれ、もともとその民族が信じてた神様がジャマになったんですね。
民俗信仰の神や、多神教の神々を葬り去らなければ布教という名の侵略ができなかったんですね。
文字通りジャマは「邪魔」って書くのです。

植民地政策の先方を任されていた、イエズス会の本部にある悪魔像の台座に、Amidasのような仏教系の名前が彫られているのは有名な話。
邪魔だったんですね。

イスラムの地獄にはキリスト教信者、ユダヤ教信者、ザービア教信者、ゾロアスター教信者、多神教信者がぶち込まれるところが、それぞれと作られているんですね。


なぜに悪魔が必要か。
自分たちにとって邪魔なものは、文字通り悪魔にしてしまえば全否定できるんですわ。
相手を悪魔にしてしまえば、何をしても罪の意識がなくなるのです。

自分と同じ血の通った、痛みも悲しみも感じる生命に対して、悪魔にしてしまえばどんな仕打ちでもできちゃうんですね。

相手を悪魔というものにしてしまう偏見は、自分が溺れている正義とか、真実とか、思想とか、権威とか、象徴みたいなトッピングによって、ますます強固なものになるんですね。
でも、それで罪の意識がないって勘違いできるのは自分だけなんですけどね。

相手を悪魔にしてしまえば、自分が悪魔に対して悪魔の仕打ちができるんですわ。
でも、自分の悪魔の行為に対してどんなに言い訳しても、ごまかせるのは自分だけです。

自分が悪魔に成り下がってることをいくらごまかそうとしても、相手を悪魔にはできません。
「みんながやってるから」
「遊んでやってるんだ」
「悪気がなかったんだ」
「相手がバカだから」
「世間が悪いんだ」
「政治や社会が悪いんだ」
外に向かって理由を作ったって正当化は成立してません。
なにも解決しないんです。
もちろん
「誰も自分のことをわかってくれない」
なんて逃げも解決になりません。
そうやって逃げて助かろうと思っても不可能なんですわ。
逃げれば逃げるほど、つぶれていくのは逃げている本人なんですわ。

悪魔を作るのは、言い訳という名前の監獄に入るのと同じです。
外との世界と孤立してしまう恐ろしい鉄格子です。しかもそれを強固にしてしまうのは本人なんですわ。
でも、その鉄格子の扉を開けるカギを持ってるのも、閉じ込められている本人だけなんですけどね。

悪魔を外に置いていても何も解決にはつながりません。
悪魔は自分の心の中にいるんです。そのことに気付かなければ鉄格子の扉は開きません。

天使も自分の心の中にしかいないんですわ。

外じゃない。天使も悪魔も心の内ですわ。

信じる? 信じない? どっちなのー?

  • 2011.10.26 Wednesday
  • 00:01
JUGEMテーマ:生きる

仮説は信じることによって成立はしません。
こうであってほしいでは事実にはなりません。
信じることだけでは、事実とは認められることはないんですわ。
仮説ってのは、それを観測を重ね、データーを集め、そのデーターをもとに証明する必要があるんですね。

証明されている事実を否定し、自分の思う仮説を真実と認めさせようとする場合は、事実をひっくり返すための膨大な観測と証明が必要になります。
ところが、仮説ありきの方々によってその努力がされることって少ないんですわ。

認められている事実が仮説と大きく離れているときには 多くが極端に行っちゃうんですね。
事実だと証明されていることを最初っから無視してかかるんですね。

自然界のすべてが科学で証明されているわけではないから、証明されていない仮説が隠された事実である、なんて論理は通用しません。

もちろん、すべての科学者や国家権力が共謀して事実を隠しているからこの仮説が明らかにされないんだ、なんて理由も通用しません。

仮説は大量のデーターと照らし合わせて整合性が見られた場合に、事実と認められるんですね。
そうなればそれは事実と認められます。
こうであってほしいということではなく、こうなんだってことが事実なんですね。
それは信じる必要がありません。信じなくても事実は事実なんですわ。

多くの自然現象はたくさんの偉大な方々のおかげで昔話や神話のなかに原因があったものから、自然な説明がつくものになりましたんですわ。
んでもその自然な説明よりも、摩訶不思議な説明を喜ぶ人がいるんですね。
こうなんだではなく、こうであってほしいって考える人は、証明可能な自然現象で仮説を否定されるよりは摩訶不思議な説明を聞いてしまうんですね。

摩訶不思議な説明を信じて、証明可能な現実を嫌うってのはかなりヤバイ状態ではありますね。
証拠もないのに願望だけで信じてしまうって状態は、摩訶不思議であっても願望を肯定することは受け入れられるんですけど、それに矛盾するような証明された事実を無視しちゃうんですね。

たとえば生年月日や血液型、星占いから、自分の人間関係などへの影響、自分の周りに起こりうるイロイロな現象なんかがわかるのか。
正式の研究で証明されていることでいえば、星占いなんてコイン投げ以上の効果はないんですね。
これらのことが明日の結果を導き出すことはありません。
なんの因果関係もありません。
それよりもこれらの因果関係も証明されない情報を信じることによって、自分と周りの人間関係や自分の周りに起こる現実、そんな大切な事実から逃避してしまうことのほうが大きなマイナスになっちゃいますね。

目の前にある情報は検証するべきです。疑うほうがいいです。
疑って疑って、それでも疑いきれないものが正しい情報です。
あいまいな証明されてない情報だけを頼りに自分たちに都合の良い情報や非合理な説明を信じるよりも、検証することのほうが大切だと思うんですわ。

こうであってほしいっていう世界観は信じることでしか成立しないんですね。
でもあるがままが世界なんですわ。
それは信じようと信じまいと変わらないものです。


信じるという行為が必要がないんですわ。

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