一乗谷朝倉遺跡

  • 2019.03.17 Sunday
  • 18:49

特別史跡

特別名勝

んでもって重要文化財の

 

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一乗谷朝倉遺跡

 

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高校生の頃にわりと行きましたけど、その頃に比べると

 

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別世界

 

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戦国の町並みが復元されてますがな

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見たことないはずです。

平成七年にオープンしたそうですがな

 

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ここは北陸の越前

 

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北陸の戦国時代は、一向一揆の勢力がものすごかったところ

 

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民衆の抵抗戦争が激しかった時代に

 

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衣食住、ついでにトイレも整った大都市がここにあったんですね。

 

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石川と富山は一向宗の自治国家となりました

 

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でも、越前の地は百姓の持ちたる国にはなりませんでした

 

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強力な戦国大名、朝倉一族が民衆の安定と生活を守り

 

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一揆をねじ伏せる戦力を持ってたんですね。

 

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復元された城下町を見ていても

 

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生活の安定が感じられます

 

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トイレが一軒一軒ついてるなんて、この時代の世界と比べてもめっちゃゴージャス

 

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コンビニですね

 

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お母さんをちら見してます。

 

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平日ですからあんまり人がいませぬ

 

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なんか舞台があります。

イベント用ですね

 

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戦国の名家、朝倉

 

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その一族が治めた大国が、

 

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この山の谷

 

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にあったのです

 

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最盛期には一万人が住んでいたそうです

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川の向こうはお館様のお屋敷

 

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城はありませぬ

 

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人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり

 

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この言葉は信玄でしたわね

 

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土地も守りやすい地形ですし

 

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高台から谷の入口にも目が行きますから

 

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城は必要なかったんでしょうね

 

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信長さえ来なければ

 

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朝倉義景の墓です

朝倉家最後の当主です。

 

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信長軍は柴田勝家が一乗谷に攻め込み、

 

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居館や神社仏閣などを放火してしまいました。

 

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この放火は三日三晩続いたそうです。

ここは滅びの国なのです

 

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この門も朝倉家を弔うために江戸時代に作られたということらしいです。

 

 

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谷の一番奥には滝があります。

 

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ここも滅びの逸話が

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この滝で佐々木小次郎が秘剣、ツバメ返しをマスターしたという伝説があります

 

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JUGEMテーマ:福井ネタ

 

宮本武蔵に巌流島で敗れた剣豪です

登呂遺跡

  • 2017.08.13 Sunday
  • 13:51

二千年ほど前

 

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この地は村でした。

 

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ここが有名な登呂遺跡なのです。

 

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弥生時代の集落

 

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水田のある

 

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集落遺跡なのです。

 

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農耕文化は

 

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保存の文化です。

 

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動物は種を拾って食べます。

種は食べてしまえばそれで終わりです。

食べるために採取や狩猟を行うのは一次目的です。

 

 

一次的目標ってのは本能のことです。

 

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でも、種を育てれば量が増えるのです。

育てるために栽培するのが二次的行動です。

 

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畑に種をまけば、鳥は食べてしまいます。

 

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でも、人間は二次的目的のために食べるのを我慢して、農業と牧畜を始めたんです。

人間は「食べる」という一次的目標のために、「育てる」という二次的目標を実行できるんですね。

 

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その生活の場の一つが

 

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この登呂遺跡なんですね。

 

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それにつけても

 

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おもったより

 

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狭いところなんですね。

 

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農耕は保存が重要です

 

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群れなければ農耕はできません。

 

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社会性と

 

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文化が生まれます

 

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居住による村ができます。

 

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具体的には

 

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ここで感じられます

 

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登呂博物館です。

 

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古代の生活を

 

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再現した

 

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コーナーは

 

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無料で見れるのです。

 

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二次目的のためには共同作業が必要です

 

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群れは社会性を持ちます。

 

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二次的目的は

 

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保存も重要です。

 

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手に入れたものを譲り合うとか、分け与えるってのも人間以外には難しい二次的目標です。

 

 

手に入れたものの分配のために

 

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原始的な共和制のルールも生まれます。

 

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首長もうまれます。

 

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村は共同生活の場です。

 

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古代に原始的社会がここにあったんですね。

 

 

JUGEMテーマ:静岡県

むざんやな甲の下のきりぎりす

  • 2016.11.06 Sunday
  • 00:05

 

加賀の地にある小さな古戦場跡

 

 

 

1183年、寿永二年。

平家軍と木曽義仲の軍が戦った倶利伽羅の戦いで、負けて逃げ出した平家軍がここで再び襲われたのです。

 

 

首洗池。

 

 

名の通り首を洗った池なのです。

洗われた首は老武者、斎藤実盛

若い者に憐れをかけられることを嫌い、白髪を黒髪に染めて老いを隠し、戦いに参加していました。

 

 

私の聞いている歴史・・・じゃないですね。

 

 

伝説はちょっと違うのです。

 

 

首を切ったのは手塚の太郎。

 

 

かなり気性の荒い手塚の太郎光盛。

その弟に手塚の次郎という方がおられました。

 

 

 

この方が、洗った首の黒髪が、白髪だらけになっていく様を見て、

 

 

「どうしてこんな年寄りがこの戦場で戦っていたのだ」

ということでめちゃめちゃショックを受けたそうです。

 

 

しかもそれが、総大将木曽義仲の幼少の頃の命の恩人、斎藤別当実盛の年老いた顔であったというお話。

 

 

ショックは計り知れないものであったということです。

 

 

 

むざんやな甲の下のきりぎりす

 

 

ショックの大きかった弟、手塚の次郎はすべてを捨てて仏門に入り、越前の山奥に庵を建てて隠居したそうです。

 

 

首を切った手塚の名前のついたここ、手塚山公園

 

丘の上には小さなお堂があります。

 

 

木曽義仲もこの後、同じ源一族に討ち取られてしまいます。

兄の太郎光盛は最後まで従い、同じ時に戦死したそうです。

 

 

空は歴史が物語になっても、変わらずに青いままです。

 

 

ことしも未来に向かって時が流れていきます。

 

 

JUGEMテーマ:石川県

韓非子の言葉

  • 2015.12.24 Thursday
  • 18:21
?〜紀元前233 中国 戦国時代末期(かんぴし)



  「政(まつりごと)を為して民に適うを期するは、皆な乱のハジマリなり」



  人民をよろこばせる政治は乱のハジマリだ。
刑罰を厳しくすれば、人々は
「厳しすぎる」
と怒り出しますが、 刑罰を軽くすると社会秩序が乱れ、人々の生活が脅かされます。

なんとなくナットクさせられてしまいました。
人は権力や地位、正しさに溺れてしまうと、それを言い訳にしていくらでも都合のいい方に逃げてしまいます。
例外を作るんですね。
権力者がわたしが法だって言ってしまえば、その法は決めるのもわたし、破るのもわたしになってしまいます。
まちがいなく離散と破滅に向かうだけです。

韓非子の場合、 法の平等を説きました。
法において、王族だろうが、 公人だろうが、武人だろうが、 自分だろうが、 法を破った者への、罰の例外を認めません。

学校の校則で生徒の自由と責任を取り上げて、 ガンジガラメにするのとはゼンゼン意味が違います。
韓非子の言うとおりならば、法に先生も生徒もないです。
生徒に罰則が与えられるのなら先生も同じ罰則が与えられるはずです。
権利や主張だけで 責任を問わなかったら、 生き方もダンダン 行き当たりバッタリになってしまうのかもしれませんね。
死刑論や少年法なんかの論議も なんかコレに近いですね。

人権ってのはすべての人な与えられるものです。
子供だから、大人だから、地位のあるなし、国籍の有無で変わるような権利は人権とは言いません。
それは特権です。

本来「人権」にも、それに付属した「法」にも例外なんかないはずなんですけどね。

 
JUGEMテーマ:歴史

太公望の言葉

  • 2015.12.01 Tuesday
  • 00:29
生没年不明 中国 周初期(たいこうぼう)


 

「枯骨や死んだ草が、なぜ凶とわかる?」



 
王と后の悪政によって商という古代国家が終わりに近づいた頃のお話です。

周の国の武王が商の国に攻め入るかどうかを決めかねている時
神職に戦の勝敗を占うように命令しました。
神職が卜筮(ぼくせい)という、亀甲を焼いてできる亀裂により吉兆をはかる占いで結果をさぐりましたら、凶と出て負けを表してしまいました。
 
王が神職の報告を受け攻め入ることを止めようとした時に、
参謀の太公望が 神職が占いで使った甲羅や草などを踏みつけて言った言葉がこれです。

戦争の結果は大勝でした。

敵の商王は神職の言葉を信じる王でした。
占いの結果は周に勝つを表す吉でした。
勝は確実という神職の言葉を信じた商王は、周をなめたまま戦いました。
結果は大敗しました。
自分の決断に責任を持った周と、占いに頼って現実を見れなかった商では、おのずと結果は違ったわけですね。

物事を決めると言う事は責任があることです。
時には命がけの責任を取らなければならないこともあるでしょう。
商の王は決めることも責任も放棄して、 結果、国を滅ぼしました。

太公望は自分が決めたことを 結果も責任も命をかけて果たそうとしたのでしょう。
生きると言う事は、
「選び取って、責任を取る」
これの連続です。
責任を取れる決断ができることを自由といいます。
甲羅なんか焼いても未来なんか見れません。
占いで人生を左右されるのは自分を捨てるのと同じです。
責任ある決断と行動が結果を生み出すのです。

一度限りの人生、迷信の奴隷になってる時間はムダなだけです。

 
JUGEMテーマ:歴史

晏嬰の言葉

  • 2015.09.13 Sunday
  • 00:13
?〜紀元前500 中国 春秋時代(あんえい) 
 

 

我が君、社稷(国民の生活)のために死ねば 
 私も社稷のために死ぬ 

我が君、社稷のために亡命すれば、 
 私も社稷のために亡命しよう 

 しかし、 
 我が君が、自分のためになにをなさっても 
 お供はしない 



 

晏嬰は斉の国の宰相にまでなった人です。

 晏嬰が宰相になる前、国でタイヘンな事件がありました。  
君主の荘公が部下の崔杼の妻と密通して、 それがバレテしまい、 崔杼に殺されてしまいました。

 晏嬰が、殺された荘公の前で泣きながら言った言葉がこれです。 

「君主が国民の生活を守るためには、私も命をかけよう。
 しかし、私利私欲のお手伝いは出来ない。」 

 と言うことです。 

 晏嬰は君主について、 
「国民をあなどるべきではなく、国民の生活に仕える者である。」 
 と言っています。 

 また、臣下について、 
 「給与のために君主に仕えているわけではなく、 国民の生活のお手伝いをする者である。」
 と言っています。

 政治だけでなく、 学校、会社にも通じる考え方だと思います。 
生徒のための学校、生徒のための先生。

 消費者が喜ぶもの、買っても良いと思うものを作り出す。 

プロ根性ってこう言うことだと思います。 

 この話には続きがあります。

 斉の国の歴史記録官は、 
 「荘公は部下の崔杼に殺された。」
 と記録に書き、怒った崔杼に殺されてしまいました。 
 殺された記録官の弟が後を継ぎ、 同じ事を書いたので、また殺しました。
 後を継いだその次の弟も、同じ事を書き、 さすがの崔杼もあきらめてしまいました。 

現代の公式文でも、新聞でも、思想や私欲などで都合の良いように書きかえたり、 平気でウソを書いたりする人もいるようですが、 
事実を事実のまま、命をかけて、
書き残すプロ根性に ビックリしてしまいますね。





危機的状態では、正確な情報だけが多くの命を助けてくれます。
このような状態の時は、思想や私欲にまみれた報道などは通用しません。

もっとタチが悪いのは正義感でオブラートされたウソの報道です。
悪気がないほど、多くの人の命を奪ってしまいます。


JUGEMテーマ:歴史

孟子の言葉

  • 2015.08.11 Tuesday
  • 10:01
生没年不明 中国 戦国時代(もうし)


 


民を貴しとなし、




社稷はこれに次ぎ、




君を軽しとなす






国民がいちばん尊くて、 国民の生活はその下にたつ。 
君主はその下である。 
 




なんだか戦国時代にはそぐわない言葉ですね。 
 


意味は、 


 「君主も、私利私欲にはしり、 政治を怠り、国民の生活も考えなくなったら どうしようもない」 


と言うことですね。 
 




孟子が斉の国の王様に、 周の国の武王が、 君主にあたる商の国の紂王を殺したことについて聞かれた時に 答えた言葉がこれです。 
 




紂王は、 政治をまったくしないで、 池に酒を浸して、林に肉をぶら下げ、 そこで、裸の男女をあそばせ、 毎日パーティを開いていた人です。 




ほかにも、自分に注意した人を 火の上に油を塗った銅の柱で作った丸太橋を歩かせ、 落ちて焼け死ぬところを楽しんだりもしたと言う事です。 




どうしようもない人ですね。 
 




孟子いわく、 


「紂王は君主ではなく、 ドウショウもない権力ボケのただのオッサンである。 武王は国民のために、そんなオッサンを殺したのだから、 なんの問題もない」 


と言っているんですね。 
 




 でも、これはある意味、 クーデターの容認ですよね。 
 


 時代が早すぎた思想家、孟子は、 どこの国にも、就職できなかったみたいです。 








きっと嘘をついてまで就職したくなかったんでしょうね。

 






ネコは涼しいところが大好きです。
 



JUGEMテーマ:歴史


墨子の言葉

  • 2015.05.04 Monday
  • 10:21
生没年不明 中国 戦国時代(ぼくし)







神に治める者




衆人、その功を知らず




明に争う者


衆人、これを知る









墨子は実在の人かどうかよく分かっていません。


墨子は国の防衛のプロで、 戦争をなくす事を願いつづけた人だったとされています。


上の言葉も墨子の言葉と言うよりも 墨子を説明する言葉ですね。




神と言う言葉は、GODとよく混同されていますが 本来の神の意味は


「他人に知られずに」


といった意味になります。


神妙なんてその意味が残った単語ですね。




つまり、明の反対語の意味です。


明も、この場合は明るいではなく、明らかの意味です。




墨子の思想の中心は、
「見返りの無い、施し」
です。





大国「楚」が、小国「宋」を攻めようとしたときに、


楚の王の前に墨子が現れ、


「宋の国は私が防衛するから、攻めてもムダですよ」


と言い、 その場で、楚の兵法家と戦争シュミレーションを始めました。




シュミレーションは墨子の百戦百勝でした。


大国、楚は弱小国、宋を攻めきれません。


楚の王はシュミレーションの結果を見て、宋を攻める事を諦めました。




そのあと墨子は楚を出て、 宋に向かいました。


宋の関所で雨が降ってきて、 関所の役人に雨宿りをたのみましたが、 役人は墨子を怪しい人間と判断して、国の外に追い出してしまいました。




国を守った恩人も、知られていなければ ただの怪しい人です。




上の文の意味は、


「他人に知られずに行動した人は 一般の人に知られることは無い。


人前でバカ騒ぎする人は ミンナ気付く。」


といった事です。




 ホントウに大切な行為をしなければならない時って、 他人の見る目なんか気にならないんですよね。


人の目を気にして行動する人は、 結局自分を見逃すと思います。






自分が気にするほど、周りの人は自分のことは気にしていませんよ。



JUGEMテーマ:歴史


項羽と劉邦の言葉

  • 2015.01.18 Sunday
  • 16:38
紀元前232〜紀元前202 中国 秦末(こうう)
紀元前247〜紀元前195 中国 秦末(りゅうほう)







項羽が 愛人虞美人と別れるときにうたったうた

 
   
   力は山を抜き、気は世を蓋う

   時に利あらず、騅(自分の馬の名)は逝かず

   騅逝かざるをいかんせん

   虞や虞や、なんじをいかんせん






劉邦が天下平定のあと、 故郷に帰り 昔なじみの人達と会った時にうたったうた

   
   
   大風起こりて雲飛揚す

   威は海内に加わりて故郷に帰る

   いずくにか猛士を得て 四方を守らしめん







項羽は自分に自身がありすぎ、全ての闘いの勝利は、 自分の力によるものだと考えました。
モチロン、部下の言うことなんかは1つも聞きません。
部下への恩賞も公平にかくものであり、 部下の不満も大きなモノでした。
敵の投降も全く許さず、 降伏してきた兵隊20万人を生き埋めにしたこともあります。

項羽のうたの前半を簡単に説明すると、

自分の力や、
カリスマ性は偉大であるのに
私が逃げるのは、
時が悪かったためであり、
愛馬が悪かったためである

と言う事です。
自分はゼンゼン悪くないのに、 回りのミスで負けちゃったと言っているんですね。
虞美人は、項羽の足手まといにならないように、 自害したらしいです。
でも、項羽にはその優しさは通じなかったみたいですね。
虞美人の死への悲しみは、 自分のために死んでくれた感謝ではなく、 自分に断りも無く、 死んでしまったことに対する悲しみですね。
それも、自分のせいではなく時のせいなんですね。

ついでに、項羽の最後の言葉が、
「天の我を滅ぼすなり。戦の罪にあらざるなり」
です。
自分が滅びるのは 天のせいであって、自分は悪くないよということです。
自分がえらくなりすぎて、 自分と他の人との関わりがまったく見えなくなっちゃったんですね。


劉邦の言葉はこれまた対照的です。

乱れた天下を平定し、
田舎に帰る事が出来たが、
この平和を守るために、
なんとかして勇猛な士を得たいものだ。

と言う事です。

劉邦は自分には才能が無いから、 作戦計画なら軍師にまかせるし、 野戦なら指揮官にまかせる。
投降はすべて受け入れる。
包容力があったんですね。

天下統一のあとも、 部下達が頑張ってくれたおかげであると言っています。
自分がよく見えていたんだと思います。

でも、このうたをうたった7ヶ月後に劉邦も死にました。
死後は劉邦の奥さんが国をグチャグチャにしてしまいましたが、 その後は長い平定が続きました。

みなさんはどちらの生き方がすきですか?
平等と均等は違うのです。
JUGEMテーマ:歴史

光武帝の言葉

  • 2014.12.15 Monday
  • 11:58
紀元前5〜57 中国 後漢の始祖時代(こうぶてい)


人は足るを知らざるに苦しむ

すでに隴(国の名前)を平らぐれば また蜀(国の名前)を望む

ひとたび兵を発するたびに、 頭髪、ために白し






光武帝、
名前は劉秀(りゅうしゅう)といいます。

この人は本来皇帝になる人ではありませんでした。
おおざっばに説明すると、 巨君という、前漢末の政治家の私利私欲によって、 前漢が滅びて、 国民が苦しみ 多くのクーデターが起こりました。
でも、ホトンドのクーデターを起こしたグループは賊となってしまい、民衆から略奪を繰り返しました。
ところが、あくまでも賊であり烏合の衆であった 賊のなかの1つのグループが、 自分達をを正当化するために前漢の血脈をもつ 農業を勤しんでいた、劉秀を担ぎだしました。
結果、クーデターは成功し、その後、 他のクーデターを起こしたグループを沈静して、 劉秀は光武帝となったのです。

光武帝のグループだけが何故成功したかと言うと、 民衆と供に暮らしていた光武帝は、 乱れた政治や、軍隊の横暴によっての民衆の苦しみがよくわかりました。
光武帝の軍の規律は厳しく紳士的でした。
また、民衆は、 秩序をもたらしてくれる君主だけを期待しているのだと言うことも 理解していました。
なによりも、光武帝は 自分の心を客観的に見ることが出来る人でした。

乱がだいたい治まり、 隴の国の軍政も制圧し、 残すは蜀の国を制圧すれば平穏な世が戻るという時に、 前線の部将に送った手紙の中に 上の文が書かれていました。

「人の欲は、ものごっつう深いもんや。
隴の国をもろたばっかりやのに、 また、蜀の国まで、欲しなってしまうわ。
出兵させるたんびに、 白髪がぎょうさんになってまうやんけ」

光武帝の人柄が見えるような気がします。
光武帝は、天下を完全に平定しても、 人格を変えようとはしませんでした。

天下平定後、皇帝となり 故郷に里帰りした時、 子供の頃に世話になった 近所のオバチャンたちに囲まれてしまいました。
オバチャンたちが、
「いゃー、あんたみたいなおとなしい、 いつも1人で遊んでいたような子が 皇帝になるなんて、 オバチャンら、信じられへんワ」
「タイヘンやったんやろうね」
「あんた、エライ事してしもうたな」
「オバチャン、ビックリやで」
とイロイロと言われた時に、 光武帝は怒りもせずに、
「できる事をムリせんと、頑張っとったら 知らんうちに皇帝になってしもただけやで」
と答えたそうです。

自分の地位に溺れないって、スバラシイですね。


どんなにすごい地位についても、変わらないものは変わらないままですものね。

JUGEMテーマ:人間関係

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